工楽松右衛門の歴史

  • 当時の工楽松右衛門旧宅
  • 工楽松右衛門は日本の江戸時代における発明家、実業家です。
    寛保3年(1742~1812)に兵庫県の高砂で漁師の長男として生まれ、15歳で兵庫へ出て行き、廻船問屋の北風荘右衛門の知遇を受け、佐比絵町に店を構え持船船頭として独立しました。
    幼少の頃から発明工夫に非凡な才能を見せていた松右衛門は弱い船の帆布に対し、天明5年(1785)、素材から改良を加え、強い帆布を織り上げることに成功し、松右衛門帆として全国に普及しました。 また、天明から寛政にかけて幕府からエトロフ築港の幕名を受け2年の歳月にて完成させました。
     
    その功績により享保2年(1802)幕府から松右衛門に「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」の名字が与えられ帯刀が許されました。

工楽松右衛門の年譜

1743年(寛保3年)播州高砂(現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の長男として生まれる
1758年(宝暦8年)兵庫に出て、佐比絵町にある「御影屋」という船主のもとで船乗りになり、その後兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知遇を受け、その斡旋で佐比絵町に店を構え、船持ち船頭として独立する
1785年(天明5年)木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功し、「松右衛門帆」として全国に普及する
1790年(寛政2年)江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する
1791年(寛政3年)夏、択捉島の埠頭が竣工する
1802年(享和2年)江戸幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられる
1804年(文化1年)箱館にドックを築造し、その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った函館の地所を高田屋嘉兵衛に譲る
1812年(文化9年)死去。墓所は高砂市高砂町の十輪寺にあり、顕彰碑が高砂神社以外に神戸市兵庫区の八王寺にもある

工楽松右衛門旧宅

工楽松右衛門の居宅であった工楽松右衛門旧宅は江戸時代に建立された伝統的軸組工法の木造建築で、当時加古川舟運や海運の港町として繁栄した高砂にあり、南堀川の船着き場の前にあります。
工楽家は、近代には砂糖の問屋などを営みながら、棟方志功などの文化人と交流し、居宅は文化サロンの場にもなっていました。
 
その後、平成28年1月に史跡として市指定文化財に指定され、平成30年5月には日本遺産『荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~』にも追加認定されました。